事実、真実、史実

「この物語は史実を基にしたフィクションです」
「この物語は事実を基にしたフィクションです」
「この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などにはいっさい関係ありません」

 

「事実」は実際にあった事柄、現実に存在する事柄、客観的に認められる事柄
「真実」は嘘偽りないこと、本当のこと、人それぞれが考える主観的なこと

なのだそうだ。
なので、体は子供、頭脳は大人の決めゼリフ「真実はいつもひとつ!」は少し違うっぽい。

では「史実」とは歴史上の事実

なのだそうだ。

というわけで、「光圀伝」は史実を基にしたフィクションなのである。
何年に誰が何をした。何年に何があった。何年に藩で事件があった。何年に誰が誰から贈られた。

そんな史実は事実だけど、そこでその当事者達が何を思って何をしたのか、その史実に至る史実に記されていない経緯は、というと史実の記された資料の間から作者が読み取って、こういう物語があったんだろう、とか、こういう物語があったら面白いよね、とか埋めていって歴史小説・時代小説となるのでしょう。

 

だから、歴史小説・時代小説が「史実を基にしたフィクション」なのはわかりきったことで、考えてはいけない・・・んだけど、
どうしても考えてしまうのは、

「フィクション率」

今期のNHK大河ドラマ「いだてん」では「このドラマは史実をもとしたフィクションです」という番組最後にテロップが流れるとのことで、異例なんだとか。

異例なんだ。じゃぁ今までの大河ドラマは「フィクション性は一切ない」と?

 

たとえばこの光圀伝のフィクション率は何%なんだろう。

テレビドラマの水戸黄門は、「隠居した水戸光圀がいた」というのは史実ではあるのだから、アレだって「史実を基にしたフィクションです」と強弁できるんだろう。フィクション率は98%くらいだろうけど。

有名な作家、有名な作品は、実際のフィクション率がどうであれリアリティと説得力のせいで、その作品が史実のような扱いを受けたりする。
その最たるものはいわゆる「司馬史観」という司馬遼太郎作品に流れる主に明治期における歴史観で、
なまじ作品が面白いしリアリティがあるため司馬史観により歪められざるを得なかった歴史上の人物が何人もいるようです。変に大物になったり、逆に愚か者になったり。

僕自身、司馬遼太郎ファンだったこともあり影響を受けました。
が、司馬作品の「竜馬がゆく」で坂本竜馬は新撰組を貶し、逆に新撰組副長土方歳三が主役の司馬作品「燃えよ剣」では当然新撰組の正義が描かれるわけです。
その主観の違いから来る「真実」が一つではないことから、歴史小説のフィクション率を考えるに繋がってきたのです。

だから、小説としては面白くなくなることこの上ないけど、横に(フィクション)とか(史実)とか書いて欲しいなぁ・・・とか。
たまに、作者ですら「この史実はフィクションにしか思えない」事柄について「読者諸兄は作者の創作と思われるかもしれないが○○に記載があるのである」なーんて書いてあったりするけど(たしか隆慶一郎の「一夢庵風流記」いわゆる花の慶次の原作にあったはず)

 

というかね。

歴史小説・時代小説における資料・史料であるモノが本当に「歴史上の事実」なのか、と。

「歴史は勝者が作る」という言葉があるように、徳川実記でさえ徳川家に都合良く書かれていたり、また歴史小説でたまに作者が言及しているように平安時代や鎌倉時代などを記した史料が、そもそも数百年後に編纂されている、ということがすでに歴史上の事実にはほど遠いわけです。
(ここら辺は、マンガ家の川原正敏が描く修羅の門外伝「修羅の刻」の後書きでやたら愚痴ってます。特に源義経編で)

あげく、NHKスペシャルとか歴史秘話ヒストリアとか観ていると、今まで歴史上の事実としてきた事が最新の研究では異なっている事がわかったりと、歴史は常に改変されるって、どういうことよ!?

 

更に続く