十七回忌の佐賀18-名護屋城址-

続き

名護屋城は信長の居城安土城と同じく、贅を尽くした幻の城です。
豊臣秀吉晩年の愚行、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際しての居城です。

晩年の錯乱・愚行とか、領地拡大とか、織田信長の遺志を継ぐためとか、という歴史認識なのですが、真実かどうかはわからんけどもう一方の事実としては、
当時スペインによる植民地拡大に対抗するため、という事情もあるらしいです。
当時スペインは明国(および属領である朝鮮半島)への植民地戦略を武力と宣教両略で狙っていたそうで、
明国が落とされると次は、その大量の明国兵を使って日本への侵攻となるから、食うか食われるかで日本は先に明を落としスペインに対抗しよう、という策略だったとか。

とはいえ、日本の船力で、明まで兵士・物資・食料などを絶え間なく送れるかという兵站面で無理があると思わざるを得ないので、
秀吉のグローバルな視点での政略は愚行では無いかもしれないけれど、戦略としてはやっぱりどうだろう?と思わざるを得ません。
だからこそ家康は一兵もあっちに送ってないわけだし。
のちの天下人になった徳川家康が秀吉のグローバルな政略を理解してないはずはなく、近視眼的な物の見方しか出来ない人が天下人になれるはずもないので、家康なりの政略・戦略的視点から、異なる先を見通していたんだろうと思うんですけどね。

秀吉、家康(徳川家)ともに宣教の裏にある一つの事実(奴隷商売、植民地化)を知って注意していたわけですし。

 

そして名護屋城はどういうつもりかすごい贅沢な作りだったようです。
もうほんのわずかな跡と資料しかないけど。
明を支配下に置くための、置いたあとの、またスペインや他国との外交上、恒久的価値を考えての作りだったんだろうけど・・・・・今となっては塵芥に帰しているわけでもの悲しいですね。

外国との窓口という立地から名護屋城博物館は、日本と、朝鮮半島・中国大陸との関係と歴史を縄文時代から遡って説明してあります。

 

鏃、石器、土器、文化、青銅器、鉄器、宗教、元寇、朝鮮出兵、太平洋戦争、現在。

  

  

  

流れがわかりやすく、なるほどねぇと思いながら見て、読み進めていったんですが・・・・

 

10年以上前に見たときより、説明文がお隣の国に対する「配慮」が侵蝕してるような?
以前の記憶が曖昧なのと、自分自身の当時と今での知識量や偏り量が違うから何とも言えないけど・・・・・


少なくとも、創氏改名は強制ではないことはハッキリしています。日本帝国軍に朝鮮名の将校がいる事実があります。

とりあえず、事実と異なるコトを都合良く叫び続けている国と一部の人たち、そしてそれを肯定して、それが否定されてもなお日本が悪い国で無くてはいけない一部の日本人がいて、某新聞社が誤りを認めつつも謝罪せず未だ垂れ流しているがためにこじれている状況で、
最後の締めの言葉が虚しさ以外感想がありません。


『私たちはその歴史を正しく認識して、お互いの文化と習慣を尊重しなければなりません。そして、率直に語り合い、よりよい友好関係を築いていこうではありませんか。』
だって。配慮していて、か。率直に、ねぇ・・・。

 

そんなことを思いつつ、文字通り兵(つわもの)どもが夢の跡となった(俳句通りの戦場ではないけど)名護屋城址を見に行ったわけですが・・・・クソ熱い・・・暑いじゃなく熱い。

   

どうせ跡しかないので熱さに負けてそそくさと退散。

 

続く