座右の銘とかレベルじゃ無いけれど。
「人間万事塞翁が馬」
が好きです。意味は人の幸不幸は予測できない。幸と思ったことが不幸となった、不幸かと思われたら幸に転じたり表裏一体というか。
ただ、この故事成語の成り立ちを人に説明すると、自分でも少しモヤモヤします。
こちらのサイトの塞翁が馬の説明だと
----引用ここから----
国境のとりでの近くに、運命判断など占いの術に長けた老人の一家がありました。ある日飼っていた馬がなぜか突然国境の外、胡人(北方の異民族)の住むあたりに逃げていってしまいました。人々が見舞いにやってくるとこの老人は
「今度のことは福を呼び込んでくれるかもしれんよ」と言います。
それから何か月かして、この逃げた馬がなんと胡人の飼っている立派な馬を何頭か引き連れて戻ってきました。人々がまたやってきて「良かった良かった」と祝福すると老人は
「これは災いをもたらすかもしれんよ」と言います。
この老人の家では良馬をたくさん飼っていたのですが、ある日老人の息子が馬から落ち足の骨を折ってしまいました。人々が見舞いにやってくるとこの老人は
「今度のことは良いことかもしれんよ」と言います。それから一年が過ぎ、胡人が大挙して国境を越えて侵入してきたので、体の頑健な男子はみな兵隊にとられてしまいました。彼らの多くはこの国境のあたりで戦死しましたが、老人の息子は足を悪くしていたため徴兵を免れ、親子ともども命拾いしたということです。
この物語が故事成語「塞翁が馬」となりました。
----引用ここまで----
まぁ禍福の変転のままならなさ、というのはわかるんですが・・・・爺さんよく言えば達観、悪く言えば周りが祝福したり見舞ったりしてくれてんのに逆張りしてひねくれやがって、という感じが僕としてはモヤモヤ。
ちなみに、上記サイトで初めて知りましたが、「人間万事」の「人間」は「にんげん」ではなく「じんかん」だったんですね・・・。
というわけで、格好つけて「塞翁が馬」を使おうとして相手に通じなかった場合に説明すると自分がモヤるので、類義語としての
「禍福は糾える(あざなえる)縄のごとし」
を使ったりします。ここのサイトのこれのページによると
----引用ここから----
災いと幸福は表裏一体で、まるでより合わせた縄のようにかわるがわるやって来るものだ。不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりする。
成功も失敗も縄のように表裏をなして、めまぐるしく変化するものだということのたとえ。
----引用ここまで----
糾う(あざなう)とは「より合わせる」という意味らしいのですが、こっちの方がわかりやすいし説明しやすい。「~のごとし」って格好良い感じもします。
ただ、「あざなえる」って言いにくい。スマートに言いづらいので舌噛みそうです。
とまぁ格好つけて故事成語ことわざを言うのもいいんですが、最近なんとなくこういうのって日本語では
「ご縁」
で済ませられそうな気がしています。禍も福も。